阿波国 あわ


 鳴門海峡を隔てて淡路や近畿に容易に連絡できる阿波国は、縄文遺跡は乏しいが、弥生時代の銅鐸30余個を残し、ほかに銅剣6振を出土している。古墳は前方後円墳のほか多くは円墳である。これらの遺跡の分布は吉野川流域や東縁部に多い。もと北半を粟、南半を長といい、粟国は忌部(斎部)氏族の活躍の舞台、長は三輪系の海人の占めるところであった。少彦名神が、この国の粟にのぼってはじかれ、伊予国に飛んで行ったことに神話で語られている。両国は大化改新(646年)以後合一して阿波国(上国)となり、5郡40郷を数え、国司の府は名東郡国府に置かれた。『延喜式』によれば陸路上9日、下5日、海路11日とある。式内社50座の中、名神大社の3座はみな北方に鎮座している。大甞会の貢進物である忌部の和布・木綿・那賀潜女の鰒などは阿波国の民業を象徴している。天智・天武の間の草創と伝える仏寺があるが、奈良時代になって国分寺・国分尼寺が創建された。延暦年間(782〜806)以降の空海(弘法大師)の巡錫は、長く庶民の宗教的情操を養った。律令体制の崩壊につれ受領層の腐敗・人民の貢納忌避・海陸盗賊の横行など阿波もも物情騒然たるものがあった。文治2年(1186)、源頼朝は、佐々木経高を阿波の守護に任じたが、承久の変(1221年)後、小笠原長清がこれに代り、その一族長宗は一宮大宮司を名のった。南北朝の抗争に際し、板野郡勝瑞城に拠った阿波守細川和氏は、南朝方の一宮氏、剣山周辺の険要による三木・菅生らの山岳武士と交戦してこれを降し、室町時代となった。以後、京都(官領、上屋形)・阿波(下屋形)の両細川は天下に威を振るったが、やがて家臣三好氏がこれに代わり、松永久秀は、また主筋の三好三人衆を倒してその実権を収めた。これよりさき、10代将軍足利義種は阿波に入り、その子孫は那賀郡平島にいて阿波公方を称した。天正3年(1575)、長宗我部元親は阿波を侵奪し、三好郡白地城に拠って全四国に号令した。その戦渦は酸鼻を極め、多くの文化財は壊滅した。織田信長が本能寺(1582年)で死んだのち、豊臣秀吉がその遺志をつぎ、天正13年(1585)、元親を降した。蜂須賀正勝・家政父子は秀吉・家康2代に仕え、家政の子至鎮の時に、従来の阿波一国にさらに淡路を加増され、25万7000石の大守となった。徳島城を居館とし50石以上の高取およそ610人、これを含めた士分の総数1万人という。家政入国以来大いに産業を奨励し、ことに阿波藍の名声は天下に鳴った。その収益はまさに75万石に匹敵し、阿波藩札は大坂においても通用したので、藩も完全専売制をしき、収益の確保につとめた。藍作税の過重は藍一揆を誘発し、また食料生産への圧迫は肥後米密輸入にかかわる庄屋十郎兵衛事件を引き起こした。家政は塩田の開発にも着目し、のち順次拡張された。正保年間(1644〜48)には12ヶ村を含む撫養塩田にまで発展した。しかも農民に対する税率は六公四民に近く、また他国に類の少ない身居(身分制度)の細分化というきびしさものであった。町人芸術として浮世絵の東州斎写楽がいる。藍師によって阿波浄瑠璃は全国に広められた。町人の経済力の進展は封建制度を根底よりゆさぶり、明治維新招来の動因をなした。  徳島県 徳島県の面積の約80%は山地で、平地としては吉野川の中下流の低地(徳島平野)、東部の勝浦川・那賀川下流、南部の海部川の流域の低地に限られる。山地はほぼ東西の方向に走り、中央構造線に沿った吉野川地溝帯の北側は讃岐山脈で徳島・香川県境をなしている。剣山(1955m)を主峰とする剣山地は、県を南北に分ける主分水嶺となっている。剣山地の南斜面は勝浦川・那賀川流域に属し、急傾斜をなし深い河谷を形成している。海岸は鳴門海峡付近を除くほかは砂浜海岸で、橘湾以南は岩石海岸をなして山地が海に迫っている。明治4年(1871)、廃藩により徳島県となり、当時の人口714.022、うち士卒族人口30.645人であった。次いで名東県となり、香川・高知両県との合併・編入ののち明治13年(1880)、再び阿波全域が徳島県となった。鳴門海峡を含む瀬戸内海国立公園、剣山、室戸阿南海岸の2国立公園、四国八十八所に属する霊場や阿波踊、阿波浄瑠璃は全国的に有名である。昭和60年(1985)、大鳴門橋が完成した。



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