備前国 びぜん


 岡山県の東部、東は播磨、西は備中、北は美作、南は瀬戸内海に面し、山陽道8カ国の一つである。天武朝のころに備前・備中・備後に分かれた。和銅6年(713)、備前の北部6郡を割いて美作国が置かれた。それ以前の崇神朝に吉備津彦命とその弟稚武彦命が吉備国を治め、応神朝に吉備国をわけて稚武彦命の子孫御友別の兄弟に賜わった。その子孫が吉備氏を称して数個の国 造を世襲した。南部の児島湾周辺は縄文・弥生の貝塚が発見され、銅鐸・銅鋒が出土し、古墳も多い。神宮寺古墳・金蔵山古墳・両宮山古墳をはじめ前方後円墳が多く、吉備氏の大和朝廷との関係を示唆している。国府は岡山市国府市場にあって、8郡51郷の上国であった。津高郡に一宮吉備津彦神社(岡山市一宮)、邑久郡に二宮安仁神社が鎮座する。国分寺は当時の高月駅、現在の山陽町にある。吉井川と旭川の下流に豊原荘・金岡荘・福岡荘・鹿田荘などの大荘園が生まれた。平安時代は平家の勢力範囲であったが、源頼朝が土肥実平を守護に任じ、佐々木盛綱に児島を与えてから東国武士が守護職を踏襲した。足利尊氏が播磨の赤松則祐を守護に任じたが孫の代になって山名教之が守護となった。応仁2年(1468)、赤松政則の臣浦上則宗が守護代として三石城を治め、西方の津高郡金川を松田氏に治めさせた。浦上氏の臣宇喜多直家が、松田氏を滅ぼし、浦上氏をおろして岡山に移り城下町を建設した。岡山は備前・美作、播磨の一部を平有した宇喜多氏の首都であった。慶長5年(1600)、関ケ原役で秀家は敗滅、小早川秀秋が岡山城主に封じられるが、 2年で怪死し断絶する。かわって姫路藩主池田輝政の男忠継が城主となったが寛永9年(1632)、その子光仲のときに因幡国鳥取に移り、従兄にあたる鳥取城主池田光政が移封し、その子孫が世襲し明治にいたった。光政時代の備前国は、28万200石であった。江戸時代には吉井川の流域が農業で発達したのに対し、備前南部の児島地方は下津井港を中心に商業がさかんになり、下津井港には諸国の物産を積んだ帆船や参勤交代の御座船のほとんどが寄港し四国渡海、金毘羅参りの港として利用されていた。明治9年(1876)、備中・美作と合併して岡山県となった。



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