筑前国 ちくぜん


 東は豊前、南および西は豊後・筑後、肥前、北は玄界灘である。『和名抄』に「筑紫乃三知乃久知」とある。『魏志』の怡土(委奴)国や奴国の故地で大陸文化流入の要衝にあたる。継体天皇21年(527)、筑紫国の磐井が新羅と結んで反乱したので、物部麁鹿火をして誅した。宣化天皇は官家を那津(博多)におき九国を総攬し、兼ねるて任那日本府(朝鮮半島)の事に当たらせた。九州の諸族は三韓と結んで反したので、中央政府の強力な出先機関を設ける必要が生じたからである。のちの官家の太宰府の移駐した時期は不明であるが、推古天皇17年(609)に筑紫国が初見される。古く九州全体を指したが、国郡整備とともに一国の名称となった。斉明天皇の巡幸のとき、朝倉に行宮を建てて百済征討の根拠地とした。天智天皇3年(664)、太宰府に水城つくり、翌年に大野・椽の2城を築いて唐(中国)の来寇に備えた。文武天皇2年(698)に筑前国が『続日本紀』にみえるところから、分国は文武天皇初年と考えられている。太宰府職制が完備するのは、大宝元年(701)の令制からで、以後、9国3島の内治・外交の拠点となった。国府は御井郡府中(久留米市合川町枝光)に置かれた。古代から中世にかけ荘園が濫立し、弥勒寺・安楽寺・石清水八幡宮・観世音寺などの所領が多い。寿永元年(1182)、平氏は太宰府を安徳天皇の行在所とした。文治元年(1185)、源頼朝は天野遠景を鎮西奉行に任じ、太宰府においた。ついで武藤資頼をもって代え、別に3前1島の守護職を兼帯させた。太宰府守護所と称したので、のちに武藤氏が少弐氏を名のるようになった。元冦による国防上からの必要と西国御家人の統制と訴訟などのため、鎌倉幕府は北条一門を鎮西探題に任じ、探題府も太宰府から姪浜・博多に移した。建武中興のとき、最後の探題北条英時は少弐・大友・島津の諸軍に滅ぼされた。足利尊氏の反するや、これにに応じた少弐貞経を尊氏は当国守護に任じた。足利幕府も九州探題をおき、延元元年(1336)、一色範氏らを残留せしめ、斯波氏経・渋川義行・今川了俊(貞世)・渋川頼満らが相次いで補せられた。今川了俊は、応安4年(1371)から応永2年(1371〜95)まで25年間在任し、征西将軍宮・菊池氏の南朝方を圧し、九州幕府軍の最盛期をつくった。その後、両軍も振るわず、明応年間(1492〜1501)大内義興が少弐政資を滅ぼしてこの国を領した。大内氏の滅亡のあと毛利・大友軍が割拠する諸豪族を攻めるが、ついに大友氏が制覇し、立花宗茂が立花城(福岡市東区)にあって当国を支配した。天正14年(1586)、島津軍が攻めてきたが、立花城ひとり降らず、翌年豊臣秀吉の島津征伐のとき、立花宗茂を筑後柳河に移し、小早川隆景に当国を与えた。関ヶ原戦(1600)後、徳川家康は小早川氏を備前(岡山県)に移し、黒田長政に当国52万3千石を与えた。長政は早良・那珂の境に築城し、旧備前国福岡に因み福岡城と命名した。元和9年(1623)長政の次男長興は支封5万石秋月藩を起こし、3男高政は4万石直方藩を立てた。直方藩は享保5年(1720)に断絶、他はそれぞれ明治におよんだ。



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