伊予国 いよ


 南海道の一国で愛媛県全域にあたり、古くから道前・道後・宇和の3地域にわかれていた。なかでも道後温泉付近に国府が置かれ、伊予国の中心であった。伊予の「イユ」は「イ湯」、道後温泉に由来するともいわれる。約2万年前の後期旧石器から人々が住みはじめ、縄文時代草創期になると、四国山脈の久万川の黒瀬川流域の穴神洞窟などから最古の土器の一つを出土している。縄文早期になると瀬戸内海に面する海岸線に遺跡は集中するようになる。縄文後期になると遺跡は増加するが小規模になり、貝塚・住居跡・墳墓・環状列石・馬の埋葬遺構などが発見されている。大洲の高山にはメンヒル(石仏)や富士山のドルメン(磐石)、ストーンサークル(環状石)などの巨石遺跡が知られている。『古事記』『日本書紀』にある二名島にちなみ二名津・二名村などの地名がある。成務・応神天皇のときには伊予・乃万・久米・越智・風早に国 造が配置された。伊予国造として、『和名抄』には上国として14郡67郷にわけていた。景行・仲哀天皇をはじめ神功皇后・聖徳太子・舒明・斎明・天智・天武天皇が道後温泉に行幸されている。『延喜式』によれば都より伊予の国府にいたる行程を上り16日、下り8日、海路14日とある。また、神名帳では伊予国24座、うち名神大社7座、一の宮は芸予諸島中の大三島の大山祗(積)神社である。  瀬戸内海に浮かぶ大小あわせて3000あまりの島々、これが古代以来の海賊の拠点であった。ことに芸予・防予諸島をもつ伊予国は海賊の中心地であった。9世紀半ばには越智郡波方町宮崎が海賊の根拠地として史料に記されている。海賊を最初に大規模に組織化したのは10世紀に登場する藤原純友である。  花山法皇(984〜1008)のころから四国遍路と称して、四国八十八箇所の巡礼となり、民衆に信仰生活を味わわさせた。伊予国には26か寺の霊場があって、金比羅道とともに道路の指標であった。当時から土着豪族の越智一族の子孫の出である河野氏が、海賊衆と主従関係を結んで絶大な勢力を振るっていた。戦国時代になると、各地に城砦が造られたが、土佐の長宗我部元親が平定したときの物語は各地に残っている。しかしそれも秀吉の四国征伐にあたって滅びた。関ヶ原役に東軍に味方した加藤嘉明は松山20万石、藤堂高虎は大洲・宇和島・今治をあせらて20万石を領した。両者転封後、松山は蒲生氏をへて寛永12年(1635)、桑名から家康の異母弟松平(久松)定行が15万石に、宇和島は富田氏をへて元和元年(1615)、仙台から伊達政宗の庶子秀宗が10万石に封じられた。明暦4年(1658)吉田3万石が分かれた。大洲は元和3年(1617)、米子から加藤貞泰が6万石できて、延宝2年(1672)に新谷1万石が分かれた。今治は松山の松平氏の弟定房で、3万5千石である。西条・川之江・小松は一柳氏の兄妹3人によって寛永13年(1636)に分れたが、同19年(1642)以後は天領となった。かくて伊予43万石は、天領と8藩に分かれて明治維新を迎えた。  地形が複雑なので、風俗・習慣・方言など変化に富んでいる。東予の秋祭のダンジリに対して、南予はウシオニと対照的である。中予地方が派手であり、企業は東予が旺盛、南予は勤勉純朴が特色といわれている。方言は東予の「行かぞつた、しざつた」に対し、松山地方の「なもし、おいきんか、おした、おいでーな」、南予の「がいなもんじや、ハーイー(今日は)、しなはらんか、行きなはいや」などと実に差が明瞭である。
愛媛県 明治4年(1871)7月14日の廃藩置県で伊予は倉敷・松山・今治・小松・西条・宇和島・吉田・大洲・新谷の9県となった。それが同年11月15日に2県に分けられた。さらに明治6年(1873)2月20日、さらに併合して愛媛県となり、伊予の国名は歴史的呼称にとどまるようになった。



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