伊豆国 いず


 神功皇后の時代に若健命をもって伊豆の国造とするということが『国造本記』の記事にある。『日本書紀』に応神天皇5年に伊豆国に科して軽舟をつくらせたとあるのが国名の初見である。推古天皇28年(620)掖久の人が2人伊豆に漂流したことや白鳳4年(675)麻績王の子、677年に田史名倉が、翌年には砺杵道作、文武天皇3年(699)役小角らが相ついで伊豆国に流罪になっている。神亀元年(724)に流罪の刑が定められたとき、伊豆国は遠国になって、以後平安・鎌倉時代にかけて流刑地として重罪人の配流が多い。大化改新のときに駿河国に合併され、681年天武天皇のとき旧に復され、国府は三島に置かれた。延喜式によれば下中国で、那賀・賀茂・田方の三郡で、中世以後これに君沢郡が加わって明治におよんだが、現在は賀茂・田方の二郡である。聖武天皇のとき国分寺・国分尼寺が建てられたが、両寺ともに平安時代初期に焼失し遺跡がある。永暦元年(1160)源頼朝が伊豆国蛭ヶ小島に流され、後にここで兵を挙げた。このときに伊豆国一の宮三島神社に戦勝を祈って以来、歴代の武将の信仰が厚く、中世以来、東海道の名社として知られ、伊豆山走湯権現も上古から崇敬されている。鎌倉幕府の始め山名義範が守護となり、足利時代になり、鎌倉管領足利基氏は、執事上杉憲顕を守護とし、のち足利成氏が両上杉と不和になると、将軍義政の弟政知が伊豆国に来て、北条郷堀越に館にし掘越公方として関東に号令したが、政知の死後、韮山城にいた北条早雲のため滅ぼされた。早雲はついで相州を経略し、本拠を小田原城に置いていたが、多く韮山におり、ここで没した。北条氏滅亡後、徳川氏は内藤信成を韮山に、戸田忠次を下田に封したが、慶長6年(1601)伊豆全州を幕府直轄とし、三島に代官を置いた。宝暦年間(1751〜64)これを廃した、国人江川氏をもって代官とした。江川氏は韮山に居を構えて代々その職につき、駿河・相模・武蔵国の幕府領をその所管とした。また、幕末には下田奉行が置かれて外交のことを司どった。明治維新には韮山県が置かれ、のち足柄県に合併され、さらに静岡県所管となった。  伊豆人の気質 伊豆は山国のため人口も少なく、生産が低くかったが温暖な土地であるため、のんびりとした楽天的な気質をもっている。主として天城山の付帯産業と漁業が生産の中心であったせいか、質実で真面目な人が多く人情も厚い反面、思いのほか消極的で内向的な人がが多く、対人関係でしばしば不利な立場に追いやられることがある。



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