薩摩国 さつま


 約2万2000年前、姶良火山(現在の鹿児島湾)の大噴火は、南九州一帯に大量の火山灰を降らせ、地域によって厚さ100mにもおよぶシラス層(火山砕屑流の1種の軽石流の層)を残した。この大噴火で、南九州に生息する生物は、人類も含めてほとんど死滅したといわれる。シラス層下の遺跡は、出水市上場遺跡など数カ所がある。上場遺跡から旧石器時代の住居跡も確認されている。南九州は約1万年におよぶ縄文時代にも何回か大規模の噴火があって、時期を異にする火山灰層は、タイムスケールの役割をしている。旧石器時代と縄文時代を画するのは、約1万1000年前の櫻島噴火によるサツマ層とよばれる火山灰層である。この火山灰層は、縄文時代早期と前期の区画になっている。火山灰層には遺跡が乏しいが、その間の黒色土層から縄文時代の遺跡や遺物が豊富に見つかっている。  南九州は豊富な自然資源の海や山に囲まれているため、古墳時代をへても階級の分化がすすまず、原始共同体社会の色彩を残している。神武天皇の体の中には、祖母豊玉姫、母玉依姫を通じて、海神・隼人の血が流れていることになる。曾祖母の木花開耶姫は大山祇神の娘で、土着人の血が多く流れている。瓊瓊杵尊から日向三代は、神武たちの代になって支配の根を南日本にしっかりとおろすことができたが、誇り高き天孫族は、体内の血のほとんどが隼人の血であっては困る。それで神神から離し、隼人を山幸彦に敗れた兄の海幸彦を隼人の祖にした。隼人は瓊瓊杵王朝の親戚であり、家来である二重性もっていたのであるが、神武東征よりはるか後の時代になると、辺境の民として過酷な待遇を受けることとなる。やがて大和朝廷の勢力が進出してきても、ほかの地方とは異なった支配方式をとった。古く阿多隼人があらわれ、大宝(701〜4)以後、それが薩摩隼人に交替しているが、隼人は交代で、都に上番して歌舞音曲や皇居・陵墓などの警衛、行幸の先導、相撲や竹細工など特殊な労役に服することになった。8世紀初頭には、薩摩・多袮2国が置かれ、和銅6年(713)には、日向国の4郡を割いて大隅国が設置され、多袮国は大隅国に属すことになった。  薩摩国は鹿児島県境の国見山脈以南で、薩摩半島を主部とし甑島列島を含む地域の西海道の西端の一国である。記紀の襲ノ国のうち、吾田・薩摩の地名がある。薩摩国の国府は川内市に、大隅国の国府は国分市に置かれ、それぞれ国分寺跡も史跡とし残っている。薩摩国一の宮は、開聞岳の麓にある延喜式社の枚聞神社と、川内市の新田神社である。養老4年(720)、隼人の側の反発が大規模となり、大隅国守陽候史麻呂が殺された。そこで万葉歌人として有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命され、1年4カ月の戦闘で鎮定した。そのとき隼人は1400余人が斬首され、捕虜となった。隼人社会が大和朝廷の支配下になると、遣唐使船も南路をとり、坊津が寄港地となった。天平勝宝4年(752)、鑑真の乗った遣唐使船が漂着したのも坊津の秋目浦であった。ただ南九州では、律令制の公地公民制の徹底を欠き、延暦19年(800)にようやく斑田制が施行されたが、その実効が疑わしく、旧来の墾田が維持された。  鎌倉時代、幕府から任命された守護・地頭が、南九州各地に入部土着するや、中世的武士社会の形成をみた。文治11年(1185)、近衛家の家司であった惟宗忠久が島津荘下司職に補任され、建久8年(1197)、薩摩・大隅の守護に任命され、さらに日向国守護を兼ねるようになると、荘名をとって島津氏を称した。島津氏の3代久経は、元冦を機に、南九州に下向し、出水平野の木牟礼城に入った。島津氏をはじめ関東武士の入部は、南九州社会に大きな動揺を与えた。鎌倉時代末期から南北朝時代を通じて、地頭と郡司、島津氏の内部抗争や南北朝の対立などが複雑にからみあって動乱の時代がつづいた。  天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征討によって島津氏の九州制覇の夢は破れたが、島津氏の南九州の地は安堵された。秀吉の朝鮮出兵には、島津義久にかわって、弟の義弘が朝鮮に出陣した。義弘が朝鮮から連れ帰った陶工たちが薩摩焼の祖となった。関ヶ原の戦いでも、当主を国許に残し、義弘が出陣した。西軍で敗北した島津氏は、井伊直政に頼り、家臣の必死の嘆願によって罪を赦免され、旧領を安堵された。薩摩国は一円鹿児島藩に属した。明治維新による廃藩後は鹿児島県となった。



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