出羽国 でわ
古くこの地を蝦夷の地、朝廷のおよばぬ所であった。律令制による国家機構のもとに入ったのは、斉明天皇4年(658)、阿倍比羅夫の征討を経て、和銅元年(708)、越後国の1郡として出羽郡が置かれた。さらに和銅5年(712)、出羽国を設置したことから始まった。この前後から出羽柵・由理柵、次いで秋田城・払田柵などの城柵が造営され、蝦夷は侵略に対しての反乱をくりかえしながらも徐々に蝦夷は統治されていった。出羽柵は、和銅元年(708)、越後国の北端に新たに1郡として出羽郡を設置したが、翌年7月、「夷狄を征するため諸国に令し、兵器を出羽柵に運送す。」と『続日本紀』にあるのが初見である。養老3年(719)7月、東海・東山・北陸の3道の民200戸をここに移したとある。天平5年(733)12月、出羽柵を秋田村高清水岡に移した。これが秋田城で、東の鎮守府に相対する。創建当時は出羽郡を中心として、陸奥国から割かれた内陸部の置賜・最上郡などがあった。養老2年(718)、陸奥国とともに陸奥按察使の管下におかれ、東山道に帰属することになった。『延喜式』では上国、11郡を数え、東山道の一国で、今の山形県・秋田県を含む地域である。東隣の陸奥国とともに本州北端の大国、略称羽州といった。国府は3度所を転じているが、いまはその地を明らかにすることができない。出羽国人清原武則が源頼義に従って安倍貞任を平らげ、鎮守府将軍に任ぜられたが、やがて子武衡らが仙北郡金沢に拠って乱を起したため義家に討たれ、その後も陸奥出羽押領使藤原清衡に併有されることになった。藤原氏は平泉に拠って出羽各地に一族譜代の臣をおいて支配し、摂関家領荘園に対しても発言権をもっていた。文治5年(1189)8月、源頼朝は平泉藤原氏を滅ぼし、出羽の諸所に御家人を配して地頭職を与えた。建武中興には葉室光顕が国司に任ぜられ、楠正成が屋代荘地頭職に補せられ、庄内では北畠顕信が活躍したが、足利尊氏が斯波兼頼に山形に鎮めせしたので、南朝勢力は時とともに衰えていった。14世紀末、南部では伊達氏が長井氏を滅ぼし置賜郡を取り、北部では安東氏が陸奥より入って秋田城を取ってこれに拠った。15〜16世紀には秋田(檜山)・小野寺(横手)・戸沢(山北)・武藤(庄内)・斯波最上(山形)・大江(寒河江)・伊達(長井荘)の諸氏が割拠した。16世紀末、豊臣秀吉が東征して、伊達氏の置賜郡を削って蒲生氏に与え、のち蒲生氏を移して上杉景勝に与えた。徳川家康は上杉景勝の石高を削ってわずかに米沢を与えた。小野寺義通の地を収め、秋田・六郷・戸沢の封を移して仙北・庄内3郡を最上義光に与え、佐竹義宣を秋田に移した。元和8年(1622)、最上氏を近江に移し、山形を鳥居忠政に与え、酒井忠勝を鶴岡、六郷政乗を本庄、戸沢政盛を真室(のちの新庄)、松平重忠を上ノ山、岩城吉隆を亀田に封じた。その後、高畠・長瀞・松山などにも織田・米津・酒井氏らが封じられ、近世末には11藩を数えた。明治元年(1868)12月7日、佐幕雄藩庄内、米沢・上山の諸藩はそれぞれ削封され、出羽国を分けて南4郡を羽前国、北8郡を羽後国とした。明治4年(1871)7月の廃藩置県後には12の県になり、その年末には北半は統合して秋田県が誕生し、南半分を統合して酒田・山形・置賜の3県が置かれた。明治9年(1876)8月になって南半の3県も統合され山形県ができ、古い呼称に連なる羽前・羽後国という名称も次第に薄れていった。
山形県
東は奥羽山脈で宮城・福島両県に接し、北は鳥海山とそれに連なる丘陵で秋田県と、南は吾妻火山と飯豊山地で福島県、西南部は飯豊・朝日の両山地で新潟県に接している。山形県の中央部を占める出羽丘陵の間に置賜・村山・最上の3地域がよこたわり、米沢・長井・山形・尾花沢・新庄の内盆地をかかえる。南の吾妻山に発源する最上川がそれを貫いて従谷として北流し、奥羽山脈と出羽山地・朝日山地との間を横断し、庄内平野の中央を横断して日本海に注いでいる。奥羽山脈と出羽・朝日山地は第三紀の凝灰岩と砂岩・頁岩より成り、ところどころに花崗岩が露頭し、一部には石英粗面岩の尖った小山が分布する。凝灰岩は山寺などの奇勝をつくっている。蔵王山〈1841m〉・船形山〈1500m〉などのコニーデ火山がその上に載り一層、高峻にしている。磐梯朝日国立公園を構成する小国盆地によって飯豊山塊と分離している。
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