越後国 えちご
古くは越国(高志・古志)の国の一部で、その最北部を占める。大平洋岸のカイ蝦夷に対する越蝦夷の占拠地であった。いまの新潟平野の大部分は半淡半鹹の湖沼地帯で、山麓台地や山間盆地に縄文土器が出土している。大和国家の勢力がおよぶと、久比岐・深江・高志の国造がおかれた。大化改新のころになって、信濃川河口に渟足冊が設けられた。つづいて磐舟冊が設けられた蝦夷政策の前哨地にすぎなかった。天武天皇のとき、越の国を三分して越後国をおき、文武天皇のとき越中との国境を確定した。和銅元年(708)越後国出羽郡の建郡、5年後の出羽国の分置によって北辺もほぼ定まった。越後国は上国に属し、国府は荒川河口の港津で水陸の要地に、いまの直江津市居多に置かれた。古代の海路は蒲原津より鶴賀・塩津・大津を経て京都と結んだ。陸路は北陸道で越中から入って各駅を経て多岐駅に到着、ここで二分して佐渡道は伊神駅に至り渡船に乗換え、多の一つは大家駅から蒲原・沼垂・出羽の方向に向かった。当時の特産物として燃水燃土・越後上布・越後米がみえる。宝亀11年(780)西大寺資材流記帳に越後国諸庄の名がみえる。中世になると国府に定住した平維茂の子孫城資長をはじめ亀田・五十嵐らの在地豪族が割拠し、鎌倉幕府の守護、地頭の設置によって抗争が激しくなり、中央の威令がおよばない辺境的性格をしめしていた。室町時代になり春日山城に守護上杉氏が入り、永正3年(1506)上杉房能が被官長尾為景に殺されたが、為景の子輝虎(謙信)は上杉氏を名乗り、はじめて越後を統一、さらに武田信玄と信濃を争い越中・能登を併せ、300万石を領有する全国的な大大名となった。慶長2年(1597)景勝が、豊臣秀吉によって会津に転封され、上杉氏は越後を去った。そのあと春日山に堀秀治、新発田に溝口秀勝、本庄に村上義明が分封された。のち堀氏は改易、家康の6子松平忠輝が代わって高田を領したが、まもなく除封され、以後小藩分立政策をもってのぞんだ。
新潟県 明治4年(1871)廃藩置県によって北半を新潟県、南半を柏崎県、佐渡を相川県、東蒲原郡を会津若松県に分割された。明治6年(1873)柏崎県は新潟県に合併され、明治19年(1886)福島県管轄の東蒲原郡を編入して今日の新潟県になった。第二次世界大戦中は大陸への最短距離を占める地理的位置により裏日本の玄関口として活躍した。冬季大陸季節風のもたらす降雪で、越後人の生活は春の雪解けから初雪までの間に大きく制限を受ける。
越後人の気質 大地主と零細農家の格差大きなところで、貧農は出稼ぎしながら辛うじて生計を支えられなかった。「頼まれれば越後からでも米搗きに来る」いうたとえがあるように江戸時代から冬期の出稼ぎのため江戸に出かけていった。裸で稼げる風呂屋の三助に住み込んで、やがて親方から資本を借りて独立するのが、この地方の人の成功する近道であった。江戸の湯屋は越後、大坂は加賀の出身者が支配権をもつていたのは有名である。信州人と並んで越後人は同郷意識が強く、結束して独占企業をつくりあげたので、勤勉と誠実の結果であろう。毒消し、薬、各種商品の行商から越後獅子まで、休閑労働を使って諸国を回ったのである。
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