越中国 えっちゅう


 東は越後と信濃、西は能登と加賀、南は飛騨国に接し、北は富山湾に面する。古代には久比岐・伊弥頭の国造が置かれた。久比岐国は新潟県頸城・三島・古志・魚沼の地方、伊弥頭国は富山県氷見・射水・礪波の地方であった。大化改新に国造は廃止され、北陸一帯は越国とよばれるようになり、阿倍比羅夫が国守であったときもあった。天武天皇のときに、越国を三分して越中国をたてたが、頸城や魚沼も含んでいた。大宝2年(702)頸城・魚沼が越中からわかれて越後国に属した。天平13年(741)越前に属していた羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を越中国にあわせたが、天平宝字元年(757)に分離して能登国をたてた。このころ大伴家持が越中国の国司として数年間滞在し、国衙は高岡市伏木にあった。このころ東大寺の開墾田が、越中のあたこちにつくられていた。平安時代になると、立山が地獄のある霊山として各地から参詣者が来るようになった。寿永2年(1183)木曽義仲が平家の軍をやぶった礪波山の戦いは、越中と加賀との境界近くで行われた。鎌倉時代の守護は名越氏であったが、建武の中興で中院定清が越中守に任じられた。室町時代になると畠山基国が守護となり、政長までつづいた。戦国時代になると上杉氏の勢力が越中にのびてきたり、神保氏や椎名氏が威を張ったときもあった。天正13年(1585)富山城に拠っていた佐々成政が豊臣秀吉に降ってから、秀吉は礪波・射水・婦負などを前田利長に与え、利長が加賀の金沢城に入ってのちも、越中は前田氏の領地としてつづいた。正保2年(1645)に加賀藩は富山に10万石を分けて支藩したが、射水・礪波は加賀藩の領地として残された。江戸時代に売薬・銅器・木綿・塩硝・鳥子紙の製造なと特殊な産業を発達させていた。  富山県 明治4年(1871)富山藩は富山県となり、まもなく新川県と改めた。翌年には七尾県所管であった射水郡をあわせる。明治9年(1876)越中の全部をあげて石川県の管轄としたが、明治16年(1883)越中を富山県とし、県庁を富山に設けた。越中名物「オワラ節」は大正10年(1921)歌謡史で有名な小原万龍が東京で流行させ、全国的になったが、もとは八尾の糸繰り歌である。さらにそのもとは肥前平戸の捕鯨船の櫓漕ぎ歌といわれる。これは北回り廻船以前に北九州との海上交易がさかんに行われていたことをあらわしている。



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