壱岐国 いき
壱岐国は、壱伎・伊伎・雪などの文字があてられている。壱岐は対馬とともに島であったが、大陸・朝鮮半島への通路であったゆえをもって国として扱われ、のちに島は廃され名実ともに国となりった。下国・小国・遠国とされた。壱岐国は、壱岐・石田郡の2郡がたてられ、石田郡に国府が置かれた。芦辺町国分に壱岐島分寺跡があるので、国府もこの近くにあったと思われる。湯岳に興の地名があって興神社が、一の宮とも、印鑰神社ともよばれていることなどから、国府はこの付近とも考えられている。
壱岐は考古学的な調査がなされているが、縄文土器は1片しか出土しておらず、弥生時代の遺跡は濃厚に分布し、その弥生土器は、中後期のものが多く、多種多様で筑前の中心地とあまりかわらぬ文化をもっていた。古墳の数は多く『続風土記』には668基が記され、100m高度の山麓台地面上に、鬼ノ岩屋などの古墳群が分布している。ほとんどが横穴式円墳である。規模は大きく巨石のある羨道は、奥行20mをこすものがある。分布は国分寺から立石・布気で、島分寺跡と接し、古墳群の中心は壱岐氏の居住地と隣接していた。壱岐島分寺は、壱岐ノ直の氏寺を当てたもので、聖武天皇の国分寺令のときは、すでに存在していた。仁明天皇(833〜50)の時、新羅に備えて防と烽がおかれた。後一条天皇の寛仁3年(1019)、刀伊が来寇し、国守藤原理忠が防戦して殉じた。刀伊は大陸の沿海州地方に住んでいた女真族で、太宰権師藤原隆家らによって撃退された。
鎌倉時代になると少貳氏が島を治め、13世紀後半の文永・弘安の役で元軍が攻めてきて蹂躙された。少貳氏の勢力が衰えると、実権は配下の波多氏に移り、室町時代には佐志・志佐・呼子・鴨打・塩津などの松浦党の諸氏が分治した。のち波多氏の勢力は一時回復されたが、弘治元年(1555)、家臣の日高守清が叛して、一旦は壱岐全島を奪ったが、維持することができず、元亀2年(1571)、女を質として誓紙を添えて平戸城主松浦隆信に送った。隆信はその女を納れて、第2子信実にめあわせ、城代として波多氏の亀ノ丘城を修築し、壱岐においた。城代の下に郡代をおき、在浦の民政をおこなった。在は24カ村に分かれ、村には庄屋をおき、庄屋と百姓の間には百姓頭である朸頭があった。村々を東目・西目・南目・北目に四分し、代官4人が分担した。海は海境を定めて、八ヶ浦に付属させ、各浦に浜便がおり、その上に浦役がいた。百姓は田畑によって生活をし、浦人は海によって生計をたてていた。
明治4年(1871)7月平戸県になった。明治新政府の貢租は、穀物から金納に代わり、商人が米価を勝手に上げて暴利を貪った。このことが知れ、これを機に一部小士族の者が百姓をそそのかし共同出荷が計画された。そして国中寄を催し、各浦の商人に対する一揆となった。明治6年(1873)3月18日、浦の郷で犬狩と称して狼藉した。当時は野犬が多く、撲殺が行なわれた。犬狩は何人の屋敷内に自由に出入りできた。19日には湯野本浦、20日には印通寺浦を荒らして、犬狩騒動とよぶ壱岐の一揆が起きた。同11年(1877)長崎県に所属した。
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