出雲国 いずも



 出雲は、島根県の東半部に当たる地域で、東は伯耆、南は備後、西は、石見国に接し、北は日本海に面してはるかに隠岐国を望む。4世紀頃まで、日本海側で最も大きな勢力をもっていたのは出雲(島根県東部)であった。記紀の伝承では、大国主命の国譲りの神話などで、古代史上特異な位置を占めている。『古事記』には、大国主命がはるばる出雲から高志国(今の北陸地方)に住む沼河比売を訪ね、求婚したときの歌謡を載せている。神話の国、神無月(10月)には全国の神々がこの出雲に集まるといういい伝えがある。出雲の名には諸説があるが、「いつ」は厳で神意を称える美称、「も」は国、境界を意味する古語で神々の国にふさわしい名である。古くは杵築、熊野の二大社の祭政を中心に出雲臣の祖先によって支配されていたが、4世紀ころに大和朝廷の支配下に属し、出雲国造に任ぜられた。天穂日命と天夷鳥命を遠祖とする出雲国造は、神事の司祭者としては勢力を維持した。出雲国造家は新任にあたっては朝廷に参向し、神寿詞を奏上した。孝時のとき、孝宗(千家)、貞孝(北島)の両国造家に分かれた。社神が数多く伝承され、『延喜式』神名帳では187社で名神大社は2座である。鎌倉時代に佐々木義清が守護となり、その子孫が継いだ。室町時代になると、京極・山名氏が守護を争い、戦国時代に入ると京極氏の支流尼子氏が勢力をえて能義郡冨田城(広瀬町)に拠ったが、永禄9年(1566)に毛利氏によって滅ぼされた。江戸時代は堀尾吉晴がこの国に封じられ、ついで京極氏、寛永15年(1638)から松平氏の治国となり、松江が治所とされ、明治の廃藩置県をへて今日となった。
 『出雲国風土記』  和銅6年(713)の 詔 によって諸国から風土記が撰進された。出雲国は天平5年(733)風土記を差し出したが、その全文は唯一の完本風土記として残っている。日本における最古の地誌で、出雲国の地勢、広さ、地名の由来をはじめ、行政上の区画、郡郷里の状況、駅家の配置、各地の伝説、社寺名、山野河海の形勢、道路橋梁の整備、港の収容力、動植物の分布、正倉の配置、郡家から各地への里程、道度、軍団、烽、戍の所在などが記されている。地誌書としてだけではなく、「国引き」の章には古代人の雄大なロマンが溢れた出雲国の神話伝承が綴られている。『古事記』『日本書紀』のなかでも、分野的に見ても3分の1以上は、異郷である大和人による出雲神話で占められている。しかし出雲独自な編集記述とされる『出雲風土記』の神話は、その記紀に伝えられている出雲神話とは異なった内容で、在地の出雲人によって語り継がれてきたものであり、その比較検討によっては出雲神話の実相を知る鍵があろう。



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