美濃国 みの


 古くは御野・三野とあるが和銅年間に美濃国としたといわれる。地勢から三地帯に分けられる。本州の脊梁山脈が北端を走って越前との境をなして濃飛山地をつくり、また美濃の東部木曽川以南は木曽山脈がのびて恵那山をなし、余波起伏して東濃に入った木曽川は飛騨川をあわせて西流し、尾張との境に出て美濃北部よりくる長良・揖斐二川とともに下流一帯の低地たる西濃平野をつくっている。美濃国の最初の開拓者は南宮大社の祭神金山彦命の一族といわれ、国造補任まえの数100年間は、宮代・府中付近が中心であった。古来より東西勢力の争覇地となった美濃国は、大化改新後の672年の壬申の乱、養和元年(1181)源平の墨俣川合戦、承久3年(1221)木曽川河畔の合戦、延元3年(1338)の青野ヶ原の合戦、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦など、いずれも天下分け目の合戦地となった。三野前国造・三野後国造・牟義郡国造を経て大化改新となり、国内諸郡が成立した。武士が起ると源経基の子孫が代々美濃守となり、一族は美濃源氏と称された。最初の守護は大内維義、ついで梶原景時、正治年間(1199〜1200)の初め土岐光衡が一代守護となり神戸城に住し、その子孫が土岐郡に移って繁栄した。美濃国の目代となった斉藤氏の子孫は東濃の遠山・土岐氏とともに名族となった。天文11年(1542)土岐頼芸は家臣斉藤秀竜(道三)に追われ、建武以来守護11代にして滅んだ。斉藤秀竜は自立して守護と称し稲葉山城にいた。永禄7年(1564)、孫の竜興に至り織田信長に滅ぼされた。信長は清洲城より岐阜城に移した。関ヶ原の役の後、徳川氏はこの地方を重視し、翌年石川康通を大垣に封じ、寛永12年(1635)10万石を戸田氏鉄に代えた。氏経に新田1万石を与え支封とした。慶長年間(1596〜1615)末に東南境12万石を尾張藩主徳川義直に与え、その他を6藩、70余の旗本領とし、その間に幕府領12万石を配置した。幕府の政策は尾張藩を主将とし、譜代戸田氏を中心とする美濃の諸家を尖兵として西日本に備えた。西濃平野は土地が低く木曽・長良・揖斐川の合流して洪水の害は日本一といわれ、輪中地帯が多い。宝暦5年(1755)薩摩藩が幕命により9ヶ月を費し、80余人の人命と270万両の莫大な犠牲を払って竣工した宝暦治水工事、明治20年(1887)より24年間かかって完成した三川分流工事により水難から逃れ、広大な穀倉地帯となり、輪中もしだいに解消した。明治4年(1871)美濃一国を岐阜県とし、明治9年(1876)飛騨国を編入した。  岐阜県 本州の中央部に位置する内陸県で旧美濃・飛騨の2国を含み、県政の中心は岐阜市である。気候は南北でかなりの差があるが、極端な内陸性気候ではないが、冬季に降雪が多くなっている。交通路は岐阜市を焦点として放射状に発達し、長良川・日本ライン・アルプス・中山七里など景勝地がある。



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