尾張国 おわり


 東海道の西部に位置する尾張国は、濃尾平野の東半を占め、南は伊勢海にのぞみ、東は三河国に連なり、北は美濃国、西は伊勢国に接して、その境に木曽川な゛流れている。東半分は北の犬山付近から南は知多半島の南端にいたるまで山岳丘陵が起伏している。西方半分は濃尾平野の南半分をなす沖積層の尾張平野であり、日本でも屈指の広い沃野である。しかも、その位置が畿内と関東を結ぶ交通の要衝に当たり、東海・中山道がここに交叉しているので、早くからひらけた地帯であった。上代この地方に平野部の中心に尾張国と、平野の東南部の熱田区を中心とする洪積層の台地に吾湯市県が置かれ、国庁は稲沢町松下にあった。天火明命の10世孫の小止与命が尾張氏の祖とされる。大化改新のときに、国と県を廃して新たに尾張国をたて、中島・海部・葉栗・丹羽・春部・山田・愛智・智多の8郡を置いた。聖武天皇のとき、国分寺は稲沢の西南にあたる矢合に設けられ、国分尼寺は法華寺にあって、総社は稲沢の東部の国府宮とよばれる自然堤防洲上にあった。肥沃な尾張国は早くから社寺・権門勢家の荘園になり、伊勢に近いので神宮の御厨・御園も置かれた。鎌倉時代になると源頼朝は大屋安資を守護とし、後に斯波氏がついだ。斯波義将は足利義満につかえて管領となった。永和元年(1375)斯波義重は清洲に居城をつくったが、管領として京都に住んでいたので、家臣織田常松を守護代とした。応仁の乱後、斯波氏はおとろえ織田氏の勢力がさかんとなり、信定は海東郡勝幡城に住し、その子信秀のとき今川氏の那古野城を奪取し、天文3年(1534)その子信長を置いた。信長は三河・美濃を経略し、永禄3年(1560)今川氏を桶狭間に破り、同10年(1567)美濃の斉藤氏を降して岐阜城に移った。天正10年(1582)本能寺の変で信長がたおれたのち、秀吉は信長の子信雄を伊勢より清洲に移して尾張国を領させた。同18年(1590)小田原役後は信雄を下野国那須に移し、秀次を封じたが、文禄4年(1595)に自殺したので、福島正則を封じた。慶長5年(1600)関ヶ原の役後、徳川家康は正則を安芸に移し、徳川義直を封じた。同15年(1610)義直は名古屋城を築いて清洲より移り、平岩親吉に犬山を与えたが、嗣子がないまで成瀬正成がこれに代って犬山に居して藩老となった。以後、農民の商品生産がさかんで、商業的農業が展開し、これを原料とする綿紡績・綿織物・絞油・染色などの加工業も発達した。とくに木綿は首位にあって一宮を中心とする尾西地方の縞木綿と、成岩・半田を中心とする知多郡の白木綿・晒木綿が有名である。染色し木綿紋染として有松染が名高い。瀬戸を中心とする陶器、半田を中心とする酢・味噌・醤油・酒の醸造業も天下に知られている。尾張藩の徳川氏がついで明治維新を迎えた。  愛知県 明治4年(1871)廃藩置県とともに、名古屋県・犬山県・伊奈県・豊橋県・半原県・重原県・西尾県・岡崎県・刈谷県・西端県・挙母県・田原県・西大平県となったが、この年の暮に犬山県と名古屋県が合併して名古屋県となり、翌5年(1872)4月愛知県と改称された。三河はそれぞれの県が合併して同4年暮に額田県となった。翌5年(1872)11月には尾張の愛知県と三河の額田県が合併して愛知県と改称された。



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