讃岐国 さぬき
「玉藻よし讃岐の国は 国がらか見れど飽かぬ。神からか甚尊き、天地日月と共に」(万葉集220)と柿本人麻呂に詠まれた讃岐は、北は瀬戸内海に面し、備讃海峡をへだてて吉備国に相対している。氷河時代の末期には瀬戸内海は陸地であった。ナウマン象やオオツノジカなどが生息していた。備讃瀬戸を中心として多くの化石骨が引き揚げられている。『古事記』には伊予国の愛比売に対し、讃岐国の飯依比古を対立させている。粟国を大宣都比売、土佐国を建依別としている。讃岐には忌部氏の奉祀する神社や、麻に関する地名が多く残り、讃岐国一の宮は田村神社である。古代この地方を開拓先駆したのは、太玉命の後裔という忌部氏で、阿波(徳島県)忌部と讃岐忌部がある。阿波忌部は穀類・麻を播植し、のちに東方(千葉県)に移動したという。讃岐忌部は矛竿の製造を業として朝廷に献じ、平安時代初期までつづいた。養蚕・機業に貢献した秦氏も綾歌郡に来住し、雄略朝には呉国より移った漢織・呉織も来住した。讃岐の国府は、坂出市府中町で遺跡を残し、条里制の三条・五条・一ノ坪などの地名が残っている。『延喜式』によれば讃岐国は大国に次ぐ上国であった。讃岐は降水量が少なく溜池が発達し、大宝年間(701〜704)の築造といわれる万濃池は、弘仁12年(821)に弘法大師空海によって大修築が行われた。中世になって荘園は武家の支配になっていくが、後宇田院領のごとく38か所も数え、社寺領とともに、その支配を免れたものも多かった。この時代、塩飽諸島は倭冦の本拠地として海上権を把握し、周防国大内氏と結び、堺と連絡し、天正18年(1590)、太閤検地によって島民のうち人名650名は1250石を与えられた。近世になると讃州ともいわれ、寛永年間(1624〜44)には諸産業が勃興し、新田開発、溜池築造に努力し、万濃池を修築して数百年の荒廃を復旧するとともに、大小90余の溜池を築造した。寛永19年(1642)、高松藩主松平頼重が、東讃12万石に封じられ、以後、坂出の東西大浜を開拓し、讃岐塩業を発達させた。
香川県 讃岐一国で、高松・丸亀・多度津・津山・倉敷の各藩および幕領で、小豆島・豊島・直島・塩飽諸島などを含んでいる。明治4年(1871)2月、多度津藩を廃して倉敷県に合し、4月幕領および丸亀藩を合し丸亀県とし、6月、津山県を置き、7月、高松藩を高松県に改め、11月、津山県を北条県に合併し、はじめて讃岐一国を管轄した。主要地をなした香川郡名をもって県名とした。しかるに明治6年(1873)2月、これを廃し阿波、淡路を含む南隣の名東県(徳島県)に合併したが、明治8年(1875)9月ふたたび香川県を分け、翌年また愛媛県と合併したが、明治21年(1888)元の通り香川県に復し今日にいたる。
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