信濃国 しなの


 無土器時代の石器が諏訪市をはじめ各地で発見され人の住みはじめたのは古い。縄文時代の土器はほとんどの地域で発見されているが、平地部にはその発見が少ない。弥生時代の土器は川沿いの平地にも多く発見されている。弥生時代後期にいたっては南信と北信とで地域の差を示し、青銅器は松本付近から銅鐸、北信から銅剣・銅鉾が発見されている。古墳時代の前方後円墳が善光寺平と伊那谷とに集まり、北信濃に積石塚が多い。信濃国は、古事記・日本書紀などには科野国と書く、延喜式によれば上国、遠近では中国、正税額は全国で10位にあたる。式内社は48社、郷も式内社も北信濃に多い。国分寺は小県郡にあり、国府もここにあったらしいが、平安時代に松本付近に移った。勅旨牧が16もあり、毎年80匹の貢馬をだし駒牽の名で知られる。望月牧の貢馬は望月駒とよばれ和歌の好題目となった。麻布は平安時代以来、信濃布の名で知られる。平安時代中期以後になると各地で発生した信濃武士は、保元・平治の乱にも参加したが、ことに木曽義仲の挙兵によって多くその下に参じた。義仲の没落後、源頼朝の知行国となり、国中の武士もほとんど御家人となったが、大豪族は少なかった。地縁・血縁などで団結する傾向があって、諏訪神党が形成された。小笠原遠光が頼朝の推薦で信濃守となって以来、伊那を根拠地として諏訪氏と対抗した。鎌倉幕府滅後、諏訪氏は北条高時の次男時行を奉じて乱を起こしたが失敗し、その後南党として北党の小笠原氏と抗争した。この対立は尾を引き、応永7年(1400)信濃守護として入国した小笠原長秀は善光寺付近で国人に襲撃された。この後、信濃には国内争乱が絶える間もなかった。鎌倉時代には諏訪神社が各地に勧請されるようになった。平安時代末期、浄土思想の普及とともに、一地方の寺であった善光寺が鎌倉時代になると、阿弥陀信仰の大中心地となっていた。室町時代中期以後になると小豪族が分立したが、甲斐の武田氏の侵略にあい、没落した諸豪族は長尾景虎(上杉謙信)に頼る者が多かったが、信濃の大部分は武田氏の領地となった。天正10年(1582)武田氏が滅び、ついで織田信長が死ぬと、北信は上杉景勝の領地となり、その他の地域は徳川家康の支配下にはいった。上杉・徳川氏の移封によって信濃武士はほとんど郷国を去った。江戸時代になると、30〜50%が天領および旗本領となり、その他の地は、9〜11の藩が置かれ、初期に約41万石、末期に約80万石、幕末には松代藩・松本藩・上田藩・高遠藩・高島藩・飯山藩・田野口藩・小諸藩・岩村藩・須坂藩であった。文化年間(1804〜18)以後、蚕糸業が発達し、飯田・諏訪などののぼせ糸、上田縞・中野紬などの実用絹織物、小県郡などを中心とする蚕種などの生産が多くなった。延喜の官道は伊那から松本平を通り、小県・佐久を抜けて上野へ抜ける道と、途中で分かれて越後へ出る支道があったが、江戸時代には中山道が佐久から諏訪・木曽を経て美濃へ通じた。このほか隣接諸国に通じる道は多く、伊那谷を中心とする中馬は脇往還を通った。伊那谷は平田学派の有力な地盤となった。  長野県 明治維新後、伊那県・中野県・筑摩県などが置かれたが、明治9年(1876)飛騨を除き南北信を合わせて長野県とした。いまでも松本地域と長野地域が一つの県でおかしいという説がある。西南のほうは東海道に口を開き、天竜川の渓谷に沿って文化を吸収したので京都的なところがあり、方言は東海道的である。信濃川沿い、甲州街道、天竜川沿いの三ルートがあり、これが同じ県内の文化、気質、体型などに微妙な差をつくっている。



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