駿河国 するが
静岡県の西から東へ遠淡海。久努・曾賀・珠流河・伊豆などの国造がおかれていたと平安時代につくられた『先代旧事本紀』に伝えられている。これは大化改新以前に富士川以東に駿河国があり、それより西の大井川付近に廬原国があったと推定される。日本武尊が駿河国の賊と戦ったと伝えられていることは、古代国家の成立期に有力な豪族がこの地方にいたことを示している。大化改新のとき、廬原・伊豆は駿河に、久努・曾賀は遠江の2国に整理されたが、まもなく伊豆国が駿河国から独立することになった。古来、駿河国は富士山によって知られ、『万葉集』には山部赤人の歌や東歌が数多く収められている。「大宝令」では中国の扱いであったが、平安時代には上国となるほど発展した。源頼朝が伊豆で挙兵した関係から争乱の舞台となりった。治承4年(1180)10月平維盛の軍が水鳥の音に驚いて敗走したと伝えられる富士川の合戦など多くの事件が記録されている。源氏の家人武田信義が任じられてから佐々木広綱・北条時房・泰時・三浦義村らに引継がれたが、足利尊氏によって今川範国がこの地方を領してから、その子孫は代々守護として栄えた。とくに義元は東海の雄として天下統一の志を実現しょうとしたが、永禄3年(1560)織田信長によって桶狭間の決戦で敗死した。駿河は一時武田氏が支配したが、天正10年(1582)武田勝頼が滅んだため、三河から新興勢力として台頭してきた徳川家康が支配した。覇者となった家康は、慶長12年(1607)に駿河府中に隠退し、将軍の後見として10年間政治を推進したため、駿河国は幕藩体制の実質的な存在となった。家康の死後は一時さの子頼信が駿河・遠江50万石の領主となり、寛永2年(1625)には将軍秀忠の二子忠長がこれを継いだが、同8年(1631)に罪によって除封された後、番城として城代をおき、同時に水野5万石(沼津)・本多4万石(田中)・松平1万石(小島)の3藩を新設し幕末に至った。慶応4年(1868)、明治維新は幕府権力を倒して将軍慶喜を退隠させ、徳川氏をついだ家達は、駿河・遠江・陸奥の70万石の一領主として駿府の城主となった。明治2年(1869)には静岡藩が置かれ、家達がその知事に任ぜられた。
静岡県 明治4年(1871)に廃藩置県が行われ、静岡藩を廃して静岡県を置き、堀江藩を廃して堀江県が置かれたが、同年さらに静岡・堀江の2県を廃して、駿河に静岡県が新設された。遠江には浜松県が置かれたが、明治9年(1876)に伊豆全体を静岡県に合わせ、さらに浜松県を廃して静岡県に合併した。ここにおいて伊豆・駿河・遠江三国が一つの行政区域になった。そして伊豆七島は明治10年(1878)東京府の管轄に移った。
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