諏訪国 すわ
諏訪湖および諏訪神社で知られる諏訪は、標高759m以上の高冷地で、無土器遺物・縄文土器などの出土が多く、尖石遺跡で知られ、古代より諏訪神社を中心とする諏訪湖畔一帯に先進的文化が形成されていた。大化改新以前には須羽国(諏訪)があった。養老5年(721)6月26日、信濃国の諏訪・伊那の2郡を割いて諏訪国をおいた。同年8月19日、美濃按察使の管下定められた。そのころの築造といわれる前方後円墳2基、円墳に和銅開珍が出土した。わずか10年にして、天平3年(731)、諏訪国を廃して信濃国に合併した。早くから集落形成が行われ、諏訪神社の神領として平安時代以来、社家の最高位を占める大祝諏訪氏の支配下にあった。諏訪神社は武神として崇敬されることによって発展し、加えるにこの地が甲州・佐久平・安筑平野・木曽谷・伊那渓への交通の要衝をなしていた。鎌倉時代に北条氏御家人として詞官諏訪氏は勢力をふるい、諏訪氏を中心とする信濃武士団は神党と称した。室町時代に入ると諏訪湖の東南方にある上社の門前に都市的集落の形成をみた。天文10年(1541)上・下両宮詞官の軋轢が甚だしく上社諏訪頼重が甲斐の武田晴信に殺され、武田氏の郡代板垣信形が高島の地に在城したが、天正18年(1590)小田原の役後、日根野高吉が封ぜられ高島を中心として城下町がつくられた。慶長6年(1601)諏訪頼水が入部して旧領を収め、高島藩2万8000石の城下として幕末におよんだ。上諏訪町には諏訪郡役所がおかれた。江戸時代に下社の門前である湖北の下諏訪も、甲州街道の終点であり、中山道の合流点の宿場として繁盛をみた。
諏訪氏
出自については諸説があるが、神武天皇皇子八井耳命の子孫で信濃国造の金刺氏の後裔、建御名方神の子孫御衣祝有員より出るといい、さらに清和源氏経基の子満快の子孫ともいわれる。代々諏訪社の大祝となり、諏訪盛重は源頼朝に仕え、諏訪太郎と称して諏訪氏の祖となった。天文10年(1541)武田晴信に殺されて一時断絶した。その後、頼重の叔父の子頼忠は頼重の旧領に復し、天正10年(1582)徳川家康に謁して本領を安堵せられた。慶長6年(1601)子の頼水旧領に帰り、高島藩2万8000石の城下として幕末におよんだ。
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