遠江国 とおとうみ


 東は大井川を境にして駿河国、西は三河国に接する遠江国は、南は遠州灘に面し、北は甲斐・信濃の山岳地帯である。天竜川は中央を南へ流れ、下流は遠州平野である。西の浜名湖は湾入し、古くは近淡海と称し、国郡制が定まってから近江に対して遠江と改めた。東海道15国の一つで上国に属していた。国府は遠淡海国造の本拠である磐田市見附に置かれた。治承4年(1180)、源義光のあと安田義定が守護に任じられ、寿永2年(1183)国守を兼ねた。それ以来国守は多く鎌倉の御家人を任命したため、別に守護をおかず、北条氏一門および三浦氏より国守となった者が多い。建武元年(1334)、戦功によって足利尊氏の弟直義が国守に任じられた。尊氏らの反乱に際し、延元3年(1334)、後醍醐天皇の皇子宗良親王は、浜名湖の北、井伊谷城に井伊氏に擁せられて、これに対抗したが戦果なく、親王は駿河に移った。尊氏は今川範国を守護とし、子貞世および弟仲秋が相続した。応永6年(1399)足利義満は大内氏鎮定の功により斯波義重を尾張・遠江の国守に任じたが、永正13年(1516)斯波義達は今川氏親に敗れ、遠江を失い、尾張に帰った。氏親の子義元は駿河・遠江・三河を領して勢力を奪ったが、永禄3年(1560)尾張の桶狭間で織田信長に倒された。永禄12年(1569)甲斐の武田晴信は義元の子氏真を追って駿河を、これと協力した徳川家康は遠江をあわせた。つづいて家康は元亀2年(1571)、岡崎城より浜松城に移った。天正14年(1586)、家康は駿河に移るまで15年間遠州にあった。天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすや、家康は関東八州に封じられて江戸に移り、秀吉は浜松に堀尾吉晴12万石、横須賀3万石を有馬豊氏に与えた。慶長5年(1600)関ヶ原役後、家康はその子頼宣を駿河・遠江50万石に封じ、元和3年(1617)頼宣を紀伊に転封された後、再び浜松・掛川・横須賀の3藩のほかに、譜代大名がそれぞれ分封された。五街道の制が定められ、古代の東海道の線に沿って東海道が設定され、大名ま参勤交代路として重要視された。脇街道として浜名湖の北岸を迂回して、浜松・市野より気賀の関所を経て三ヶ日より本坂峠を越えて御油にて本宿に合する、俗に姫街道と称した。明治元年(1868)徳川家達が駿河・遠江および三河の地70万石に封じられ、静岡藩とした。このため沼津藩主水野氏は上総菊間に転じ、駿河の田中・小島、遠江の相良・横須賀・掛川・浜松はみな房総の地に移封され、ただひとり大沢氏は、あらたに藩に列して堀江藩を置いた。  静岡県 ついで明治4年(1871)廃藩置県により、静岡藩を廃して静岡県を置き、堀江藩を廃して堀江県が置かれたが、同年さらに静岡・堀江の2県を廃して、駿河に静岡県、遠江に浜松県が置かれた。



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