津軽国 つがる


 中央部を南北に走る山脈は、太平洋・日本海両斜面の分水嶺となり、東は太平洋、西は日本海に面し、・半島が湾をいて津軽海峡をんで北海道と相対する。太平洋岸式、日本海岸式の気候型に分かち、・の2地方に分けている。  この地域は、から時代へと文化のを秘めている。土器の使用を知らず、主に石器を使用していた先土器時代から人間が住みついていた。つづく縄文時代は約1万3000年余といわれている。出土した縄文土器の形態のいによって大きく6つの時期(縄文時代草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)に分けられているが、縄文文化の最後を飾る優れた土器がから出土した。それは西津軽郡町から出土した宇宙人をおもわせるの(国重文)などで、土器は多様な形態を見せて亀ヶ岡文化とよばれる。最盛期には、東北地方から関東・中部へと影響をおよぼしていた。縄文文化を最後までかたくなに守ってきたのが東北地方であり、津軽である。さらに平成6年(1994)7月16日、青森市の遺跡の発掘が報道された。遺跡をしのぐ縄文時代の巨大な柱跡が発見された。今までの縄文時代の常識を覆す広大な縄文遺跡があらわれ、古代の謎が解き明されようとしている。  平安時代の後期の氏の勢力が強くなるにおよんで、津軽地方も南部地方もその配下に入ったが、津軽は(鼻和)・・・・の6郡にわけられ、南部地方はと名づけられたといわれる。年間(1573〜92)にの北方を割いて郡(階久郡)を置き、ついで郡と改め、南の部分を二分して・の2郡とした。津軽領は氏領ととの二つに分かれ、が置かれたが、やがて氏(津軽氏)がり、一つにして江戸時代を通じて領有した。幕末には津軽藩・津軽藩・南部藩・南部藩・南部藩の領有するところであった。明治元年(1868)、陸奥国は・・・・の5国に分けられた。陸奥国は二戸・三戸・北・津軽の4郡となった。明治3年(1870)、盛岡南部藩領に藩(松平氏)が置かれた。明治4年(1871)7月、廃藩置県の際は弘前・黒石・七戸・八戸・の5県となり、同年9月、弘前県に統合され、同月県と改称し、県庁を青森に置くことになった。九戸郡を盛岡県(岩手県)に移したのはこの時であった。



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